The Emperor of All Maladies

「あらゆる疾患の帝王」とはまた凄い題名だが、これは現役の癌治療医であり、また同時に研究者でもあるSiddhartha Mukherjeeによる「癌の伝記」。(本論とは関係ないが、著者は名前からみて明らかにインド系で、そういうバックグランドの人が第一線で活躍しているというところにアメリカ社会のダイナミズムの一端が窺えるかもしれない。)著者が実際に担当した患者の話と、癌治療の歴史が自由自在に交錯し、そのストーリー展開のテンポが非常に良い。今年のピュリッツァー賞に輝いた。

わたしは一応、前世(?)は小児血液腫瘍医なので、ここに登場する一つ一つのエピソードは非常に身につまされるものが多かった。研修医の頃、同じオフィスの外科研修医が乳がんの手術録を書くのをよく見かけたが(わたしは大学病院で研修しなかったので、同期の研修医全員が一つのオフィスを共有していた)、多くは「ハルステッド法に基づき乳房全摘」。当時はうかつにも気がついていなかったのだが、ハルステッド法は19世紀末に開発された手術法。つまり、19世紀末からわたしが研修医をやっていた時代まで100年近く、乳がんの手術といえば同じ術式を延々と繰り返していたわけだ。しかも、最近でこそ日本でも成人固形腫瘍の化学療法がメインストリームの治療の一部として市民権を得ているようだが、わたしが研修医の頃は、固形腫瘍の治療は手術が絶対、再発は外科医の敗北であり、化学療法はその敗北に対する申し訳程度の地位でしかなかった。(もちろん外科医の口からそのような言葉を聞いたわけではないが、内心そう思っているであろうことは、言葉の端々から十分窺えた。)

一方の小児の化学療法はといえば、とにかく治療を強くすればするほど完治の可能性が上がるだろうという暗黙の了解のうちに、様々な抗がん剤の組み合わせが試されていた。髪の毛が抜けるのは「がんなんだから仕方がない」、骨髄抑制がきて赤血球や血小板が下がれば輸血すればいい、顆粒球が下がれば、まあそのうちに戻るさ、それまで感染が来たら抗生物質で対処、今時、治療による骨髄抑制で命にかかわることなんかないさ、といった、これまたなかなかワイルドな世界だった。

この本には次から次へと懐かしい名前が登場する。ああ、この人は、こういう人だったのか、と目からうろこの落ちる思いをすることがいっぱい。先に書いたハルステッドが1世紀も前の人だったことをはじめ、薬理の教科書の定番、Goodman and Gilmanだとか、Lasker賞のLaskerとは何者か、あの”War on Caner”はどこから来たのかとか、ハーバードのラボの住所で時折見かける”Jimmy Fund Way”というのは何なのかとか。今では泣く子もだまるUCSFが、Michael Bishopが着任した当時は一介の田舎大学と思われてたというのも驚き。

ここに描かれたコンテクストをもとに80年代、90年代のペーパーを見直すと、どうしてそれが画期的だったのか(あるいは大ハズレだったのか)が見えてくる。過日も同じ研究所の他のファカルティと話していたのだが、是非とも院生の必読図書に指定したくらいの本なのである。

(いずれ日本語訳も出るかと思うのだが、これだけの内容を読みやすく、かつ正確に訳せる人がいるのかどうかが心配。この間もある日本の大手経済誌にアメリカの経済学者のエッセイの日本語訳が掲載されたが、内容の大筋は良いとして、本人が自分の罹患した疾病について書いた部分の訳の不正確さが気になった。どうして掲載前に医学部分を専門家にチェックさせないのか?アメリカ人は、専門家でなくても、多少教養ある人は医学用語を正確に使う。だから雰囲気で不正確な日本語を当てはめるのは良くない。)

善意であることはわかるのだけど…

ツイッターで流れてきた情報で、Susan G. Komen for the Cure という非常に大きな影響力を持つ乳がん支援団体でちょっと微妙な署名集めが行われていることを知った。

リンクはここ。 –>

もしかしたらこのページは閉じられるかもしれないので、スクリーンキャプチャーを貼っておく。(画像をクリックすると大きくなります。)

大雑把な内容は以下の通り(意訳):

「日本におけるガン死を防ぐために署名にご協力を」

原発事故により日本でガンが爆発的に増える恐れ (looming cancer crisis (訳注: これはかなり刺激の強い表現)) があります。国際コミュニティが今、ここで声を高くして、日本を援助しましょう。

過去の原発事故による放射能被ばくによって、大勢の方がガンで亡くなりました。日本はチェルノブイリの再現になる恐れがあります。(訳注: こら、何を言うか!) スリーマイルでも、発電所近辺住民のガン発生率は高くなっています。被ばく量により、白内障、ガン、先天的障害などが起こる可能性があります。

このような悲劇を繰り返してはなりません。

この署名活動に参加して、今回の事故の詳細、放射能データなどが公開されるよう、協力してください。(後略)
————-
ちゃんと読めば、言ってることは真っ当なのだけど、ちょっと斜め読みした場合、「えっ、今日本に住んでる人は、もう危ないんだって???」という印象を招きかねない。つまり、おバカな健康保険会社の連中が、こういう情報を中途半端に理解して、「2011年3月に日本に住んでた?はい、あなたはガンリスクが高すぎるから、普通の健康保険に入れません。ハイリスク向け保険を申請し直してください」などということになりかねないのである。

いちおう、この団体のサイトから、このページの文言はちょっと刺激的すぎること、早とちりした健康保険会社が日本から戻ったアメリカ人の健康保険差別をする恐れすらあること、さらに、放射線量データはすでに政府のサイトに公表されているから、それを参考にすればいいことなどを書いてメールを送ったけど、一般雑魚市民にどのくらいの影響力があるのかはよくわからない。

ときには、善意ほど始末の悪いものはない。