Posted in Books, FI on Feb 6th, 2011 2 Comments »
これも一年以上前に出た本なので既に読んだ方も多いと思うが、面白かったのでご紹介。 前に紹介した The Big Short が Bear Sterns の破綻で終わるのにまるでタイミングを合わせたかのように、この本は(著者は違うのだが)ちょうど Bear の崩壊から話が始まる。 Bear の次は Lehman か、とジワジワと真綿で首を締めるように Lehman へのプレッシャーが上がってくる。いったん Lehman が危ないという懸念が広がりはじめると、好決算を発表しても市場のセンチメントは変わらない。なんとか会社を立て直そうと、投資家からの資金援助、他行との合併など様々な方策を探るが、最終的には Chapter 11 という、まさかの結果を迎えることになる。 日本語では「リーマン・ショック・コンフィデンシャル」という題で訳が出ているらしい。確かに Lehman の動きに多くのページが割かれているが、 AIG にもかなりの焦点が当てられている。ここで扱われているのは Bear Sterns 崩壊から TARP (いわゆる bailout 法案)発動までの約半年の経済界全体の混乱ぶりであり、大恐慌の再来をなんとかして防ごうとするエリート金融機関の重役、政府高官の必死の努力の軌跡である。(ついでに、英語ではあまりリーマン・ショックという言い方は聞かないように思うのだが、これはわたしが無知なだけ?) 以下、思ったことをいくつかランダムに。 この本は、ニューヨークタイムスの経済記者の書いたノンフィクション。ストーリーの中心は人の動きであって、2008年の financial crisis の原因は何か、とか、見た目は好決算を出していた Lehman が半年もしないうちに倒産の憂き目にあったのはなぜか、という点に関して、テクニカルな面からの分析は主眼ではない。登場人物が多いので、せめて各金融機関の CEO の名前くらい知らないと取っ付きにくいかもしれないが、経済記事にあまり興味のない人にもおすすめ。 ウォールストリートの戦士たちというのは、よく働くんだねえ。こっちで Bank of America との合併のための diligence session をやり、あっちで平行して Barclays との session をやり、何時間以内に [...]
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Posted in Books, Movies on May 24th, 2008 2 Comments »
The Remains of the Day で知られるイギリスの作家 Kazuo Ishiguro の小説。 Ishiguro はいちおう日本生まれではあるが、育ったのはイギリス、作品も英語ばかりだから、イギリスの作家とするのが適当だと思う。 上海で阿片貿易の片棒を担うイギリスの会社に勤める Christopher の父が行方不明になり、間もなく、 Christopher の敬愛する美しい母も誘拐される。孤児となった Christopher は、イギリスの親戚のもとで育てられ、やがて大学卒業後、探偵として名を馳せるようになる。しかし、彼が探偵となった真の目的は、子供の頃に行方不明となった父母の行方を探すためであった — 主人公の一人称による語りでストーリーが展開し、彼の思考が前後するたびに、時系列に関わりなくエピソードが繰り広げられていくのは、 The Remains of the Day と同じ、 Ishiguro 独特の展開法である。 The Remains of the Day が「執事」というもっともイギリス的な職業に視点を当てたとすれば、この When We Were Orphans の主人公、 Christopher Banks の職業は探偵、ということで、読み手がシャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロといったイギリス人作家の生んだ名探偵を思わず連想してしまうのは、作者が最初から意図したことであろう。しかし舞台が二十世紀前半の上海ということで、ホームズやポワロとは全く違った背景が設定される。 (ネタバレになるので、これ以上詳しく、筋書きは書きません。) この作品を読む前に、 The White Countess という第二次大戦前の上海を舞台にした Merchant-Ivory 映画を見たことがあったが、この映画の脚本は実は Ishiguro が書いている。表向きは「上海」を除けば、 When We Were [...]
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Posted in Books on May 2nd, 2008 2 Comments »
「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」などで知られるイギリス二十世紀前半に活躍した作家E. M. Forsterの小説である。書かれたのは1913年、「ハワーズ・エンド」が書かれた直後らしいが、題材が題材なだけに、1971年、作者の死後まで発表されなかったらしい。 映画にもなったからご存知の向きも多いと思うが、内容は、二十世紀初頭、イギリスのパブリック・スクールからケンブリッジ大学に進んだモーリスが、同性にしか興味を持つことができない自分の性に目覚め、大学時代の友人クライヴとのプラトニックな関係が破綻した後、クライヴの屋敷の森番アレックと関係を結ぶというものである。 イギリス、性、森番、というと、これはD. H. Lawrenceの「チャタレイ夫人の恋人」のキーワードでもあるが、「チャタレイ夫人」が私家版としてイタリアで発表されたのは1928年、時間の流れとしては「モーリス」の方がかなり先になる。しかしE. M. Forsterは1960年のチャタレイ裁判で証人として登場しているから、身分や性というのは当時の大きなテーマであったことがうかがわれる。 実際今回、ほぼ二十年ぶりに読み返してみて、身分というか社会階層というか、そういったイギリス特有ともいえる題材の扱いが非常に印象的だった。モーリスもクライヴも二十世紀初頭のケンブリッジに在学したということだから、どちらも所謂「いいとこのお坊ちゃん」なのであるが、その「お坊ちゃん」の間でも二人の階層は異なる。亡くなったモーリスの父は証券会社のパートナー、金持ちではあるが、これは働いて得た金で、おそらく十九世紀後半以降に成長した階級である。それに対してクライヴは地方に屋敷を構える、古くからの名士。伝統的に土地の収益だけで暮らしてきた階層であるが、二十世紀に入るとそのような生活形態を維持することは難しかったようで、屋敷はひどく老朽化していることが作品の端々に表れる。さらに付け加えるなら、そういった旧家の経済を立て直す方法はただ一つ、金持ち(おそらく新興成金を意味するのであろうが)のお嫁さんをもらうしかなかったようである。 さてこのクライヴであるが、なるほどモーリスを同性愛に目覚めさせるのは彼なのだが、果して彼自身は同性愛者であったのかどうか、わたしには疑問である。クライヴのとっての同性愛とは、ギリシア古典、プラトンの説く愛であり、モーリスとの交友においても肉体を分かち合うことはしない。そして、ある時期を機に、突然憑き物でも落ちたかのようにモーリスを捨て、自分と同じような社会階層の出身者である女性アンと結婚してしまう。ちなみに、アンとの間もプラトニックであったかというと、そうではなかったようである。しかし、それは熱い感情に基づくというよりは、夫婦の間ではかくあるべきだから、という理由で結ばれた関係のようである。だからわたしは思うのだ、クライヴは本当にモーリスを欲したのではなく、ただプラトンを気取ってみたくてモーリスとの関係を結んだのではないかと。その登場の最初からして、クライヴは非常に頭でっかちである。モーリスはあまり頭の回転がよくない、と何度も本文中に書かれているが、モーリスはそのクライヴの論理に半ば翻弄されながら、心を開いてしまう。しかし、クライヴのような人物は、開かれた心を受け止める術を知らないのである。 クライヴに捨てられたことによって、唯一の理解者を失ったモーリスが辿り着いたのは、森番アレックであった。アレックが一体何者なのか、労働者階級の出身で、いちおう読み書きができ、兄の世話で海外移住が決まっている、という以外には、彼の背景に関しては多くは語られていない。本人はモーリスに誘惑されるまでは「ちゃんとした人間」だったと言っているが、これはモーリスを脅そうとする過程の中で語られる言葉だから、どこまで信用できるものか。にもかかわらず、二人はそれまでの世界を捨てて、共に生きる決意をするのである。身分違いの恋に落ちた運命の恋人たちが辿る道は、時代を越えて共通なのであるが、これはそこに「同性」というオマケが付く。だからこの話は、モーリスとアレックのfairy taleと呼ぶべきなのだろう。
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