Amour

卒中で衰え行く妻を自宅で介護する夫。退院の際に妻は夫に「二度と病院にはやらないで」と懇願する。娘は「自宅で介護なんて無理、しかるべき施設に入れるべき」と。

今の時代、どこの国でも避けて通ることのできないテーマなんですね。

それにしても、さすがフランス映画、キャスティングがすごい。主役のアンヌはエマニュエル・リヴァ(Hiroshima mon amour)、夫のジョルジュはジャン=ルイ・トランティニャン(Un homme et une femme)、娘はイザベル・ユペールなのだが、この二人の前では「え、あれ、イザベル・ユペールだったの?」というくらい、この老夫婦の存在感が圧倒的。

ストーリーはほぼ終始一貫して老夫婦の住むパリのアパートの室内(キッチン、寝室、客間)で展開する。老夫婦はどちらも元音楽教師という設定で、そこで演奏される音楽がシューベルトのピアノ曲、というのが、またまた渋い。シューベルトは表面は美しくても、心の中に冷たい風が吹くような、逃げ道のない諦観・絶望感を音にしたものだと思う。

映画の最初に、結末が暴露されているので、観客はそこに至る過程を老夫婦と一緒に歩むだけである。アメリカ映画なら必ず挿入されたであるような「心温まるエピソード」や「奇跡」は起きない。しかし、これが人生というものではないのだろうか。

The Artist

今年のアカデミー賞は明日らしいけど、遅まきながらノミネート作のひとつ、The Artistを見てきた。

サイレント映画スターのジョージは、女優志望のペピーと偶然出会う。ジョージのちょっとした口添えで映画出演の足がかりを掴むペピー。それを機に、彼女は少しずつ女優としての実績を伸ばしていく。

2年後、映画会社の社長が「サイレント映画はもう古い」と、音声付き映画に方針転換する。新しい方針に賛同できなかったジョージは、自分でサイレント映画をプロデュース。その映画の公開は、ペピーの主演する音声付き映画の公開と重なった。結果はジョージの惨敗。1929年の株式市場の大暴落に加えて、妻との離婚も相まって、ジョージは経済的窮地に立たされる。

裏びれたアパートで、長年連れ添った愛犬と二人(?)きりで暮らすジョージ。先行きの見通しもなく、自暴自棄になったジョージは、自分の出演作のフィルムに火をつける。そして。。。

ストーリー展開は予想通り、最後はハッピーエンドの非常にチャーミングな映画。サイレント仕様で、ほとんど人間の会話なし。ストーリー展開上必要最小限な会話は、字幕で提示される。カーチェイスもない、暴力シーンもセックスシーンもない、結末は見え見えなのに、それでもワクワクドキドキできる、ある意味で「昔の映画」の良さをありったけかき集めてお洒落にパッケージした、楽しい2時間弱だった。

そもそも主役ジョージの苗字はヴァレンティン。明らかにサイレント時代のスター、ルドルフ・ヴァレンティノを意識した命名だろう。羽振りの良かった時代にジョージが住んでいた豪邸は「サンセット通り」を思わせる。「忠実な執事」も「サンセット通り」に出てきましたね。(The Artistの執事役は牧羊豚映画Babeのホゲットさん。)スターへの階段を登る若い女と、下り坂の男という取り合わせは、「スター誕生」そっくり。「スター誕生」はもっと重いけど。

そして忘れてはならないのが、スーパードッグ、ジャック。(本名、アギー。)「会話音声がない」「何を言ってるかわからない」というのは、この映画の重要なポイントで、だからこそ「人間の言葉をしゃべれない犬」というのが意味を持つわけである。このアギーちゃんの名演、「男優賞にアギーを」という声が絶えず、BAFTAは「アギーは賞の対象外」との声明を出すはめになったとか。明日のオスカー、アギーが来るなら中継を見てもいいと思うくらい。

しかしこの映画、実はフランス映画。今のハリウッドはこういう幸せな映画を作らないんだなあ。

Tattoo and copyright

今日のNew York Timesに「タイソン(元プロボクサー)の顔の入れ墨を模倣した人物を登場させた映画に関して、タイソンに入れ墨を施した彫り師が、映画の製作元を相手取って、版権の侵害であると訴えた。」という記事があった。

わたしは別にタイソンの入れ墨なんかどうでもいいし、ここで取り上げられている映画にも別段興味はないのだが、この記事で一つ気になる点があった。それは、タイソンに施された入れ墨が、マオリ族の伝統的な刺青デザインを元にしているという部分だ。ならば、版権は彫り師ではなく、最終的にはマオリ族に帰属するのではないか?

刺青をめぐる版権問題というのは先例がないそうだが、「先住民族」「版権(こちらは厳密には特許だが)」とくると、バイオ関係では先例がある。1990年代にパプアニューギニアの先住民の血液から樹立された細胞株に対して認められた特許を巡り、「先住民の価値観、尊厳を無視している」「先進国研究者の驕りだ」などと法律、倫理の面から問題になった。(たとえば、この問題と扱った当時のサイエンス誌の記事はこちら。2889186

個人的には、タイソンの顔の入れ墨のデザインなんかより、アメリカでよく見かける「変な日本語(もどき)」の入れ墨の方がずっと気になるんだけど。あれに出くわすたびに、My Fair LadyのProfessor HigginsがElizaの英語を称して言った「Cold-blooded murder of the English tongue」というフレーズが思い出されてならないのである。

The Social Network

近所の安売り映画館に例のFacebookの映画が回って来たので、先週末に見に行ってきた。(安売りとはいうものの二人で5ドルだからDVDレンタルの方が安いのだが、同居人はいちおう映像作家なので画質にうるさい。だから、映画館で見れるものは、なるべく映画館で見たがるのである。)

これはあくまで事実を元にしたフィクションなのだそうだが、いかにもハーバードらしい傲慢さ、自信満々な学生たちの頭でっかちな嫌らしさがうまく描かれており、映画としてはなかなかの出来だと思った。

ただ、この映画を見てつくづく思ったのは、Facebookは20歳くらいの子が面白いと思うものを「カタチ」にしたものだということ。友達同士で連れ立ってトイレに行くような、そんな「子供」の考える人間関係の価値観を基に設計され、それを押し付けようとするところが、わたしがFacebookを良く思わない理由の一つでもある。(もちろん、Facebookの変にタイトな人間関係を適当にあしらって、意見を広める場としてうまく利用しているユーザーもいるのは事実だが。)作中に登場するFacebook本社内部(職場に卓球台があり、ジュースは無料の模様)はまさしく大学生の思い描く「夢の職場」であり、「犬の想像する天国は、泥と骨に満ちあふれている」という名言(?)を思い出してしまった。

Le mari de la coiffeuse

久しぶりの映画。オマハのような地方都市では、ハリウッド制作以外の映画を見る機会はなかなかない。わたしの知る限りで二館ほど、ハリウッドの流通経路以外の映画を上映している映画館があるけれど、必ずしもチョイスがこちらの好みに合うわけではなく、ときどきにしか行かない。これはそういった「珍品」の一つ。
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