アメリカ洗濯事情

アメリカの家庭では、洗濯物は乾燥機で乾かすので、「干す」という行為をしなくなって久しい。しかし、この数年、エコロジーブームと相まって、洗濯物を干すことの価値が、一部で見直されつつある。

一般のアメリカ人に、「どうして洗濯物を干さないの?」と尋ねれば、「面倒」(乾燥機は洗濯機の隣に設置するから、濡れた洗濯物を抱えて歩き回る必要がない)、「外に干すと汚れる」(確かに花粉の季節などは、花粉が付くだろう)、「隣近所に洗濯物の内容を見られたくない」(日本より大概庭は広いんだから、場所さえ選べば、近所から見えないと思うけどなあ)などという理由を挙げるであろう。しかし、多くの場合、一番大きな理由は「外に干すことは禁止されているから」だと思う。 Read more

When We Were Orphans

The Remains of the Day で知られるイギリスの作家 Kazuo Ishiguro の小説。 Ishiguro はいちおう日本生まれではあるが、育ったのはイギリス、作品も英語ばかりだから、イギリスの作家とするのが適当だと思う。

上海で阿片貿易の片棒を担うイギリスの会社に勤める Christopher の父が行方不明になり、間もなく、 Christopher の敬愛する美しい母も誘拐される。孤児となった Christopher は、イギリスの親戚のもとで育てられ、やがて大学卒業後、探偵として名を馳せるようになる。しかし、彼が探偵となった真の目的は、子供の頃に行方不明となった父母の行方を探すためであった —

主人公の一人称による語りでストーリーが展開し、彼の思考が前後するたびに、時系列に関わりなくエピソードが繰り広げられていくのは、 The Remains of the Day と同じ、 Ishiguro 独特の展開法である。 The Remains of the Day が「執事」というもっともイギリス的な職業に視点を当てたとすれば、この When We Were Orphans の主人公、 Christopher Banks の職業は探偵、ということで、読み手がシャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロといったイギリス人作家の生んだ名探偵を思わず連想してしまうのは、作者が最初から意図したことであろう。しかし舞台が二十世紀前半の上海ということで、ホームズやポワロとは全く違った背景が設定される。

(ネタバレになるので、これ以上詳しく、筋書きは書きません。)

この作品を読む前に、 The White Countess という第二次大戦前の上海を舞台にした Merchant-Ivory 映画を見たことがあったが、この映画の脚本は実は Ishiguro が書いている。表向きは「上海」を除けば、 When We Were Orphans とはあまり共通点はない。しかし、 The White Countess の Todd Jackson は、ある意味で When We Were Orphans の Christopher Banks の裏返しであり、もしかすれば The White Countess は When Were Were Orphans のもう一つの結末とも言えるのではないかと思うくらい、その世界は不思議に似通っている。

The Other Boleyn Girl

近所の格安映画館で上映中の The Other Boleyn Girl を見た。ブリンと言えば、ヘンリー八世の二番目の妃、アン・ブリンを思い浮かべるが、実はアンの妹(?姉とも言われる。どちらも出生年の記録が残っていないらしい。)メアリもヘンリー八世の愛人で、王を巡る姉妹の確執を中心に、斬首によるアンの死までが描かれている。

出演はアン・ブリンにナタリー・ポートマン(「スター・ウォーズ」のお姫様)、メアリ・ブリンにスカーレット・ヨハンソン(「ロスト・イン・トランスレーション」)と、なかなか豪華で、衣装も結構凝ってるのだけれど、興行的には今ひとつだったらしい。最近の人気テレビドラマの一つ、「テューダー」と同じ時代、同じ題材を扱っているのに、この差は如何に?

ひとつはストーリー展開が複雑すぎるのではないかと思う。二時間弱の間に三人の女性の三回の出産シーン、それぞれのシーンで誰が誰を生んだのか、予備知識なしに見れば混乱するばかりではないか。あと、「テューダー」はソフトポルノと呼ばれるほど、「大人向け」なのだけど、この映画は大スターを使ったためか、そのへんがひどくユルい。集客のためにそのようなものを多用するもの情けない話だが、一方のテレビ番組がそういう評判であるので、どうしても比較されてしまうのだろう。

ちょっと興味深かったのは、女性キャラクターが総じて強いこと。アンとメアリの姉妹はもちろんのこと、富と権力のために娘を売る夫に逆らうことはできないが、それでも芯の強さを見せるブリン夫人、ヘンリーの最初の妃、キャサリンなど、存在感のある女性の多い映画だった。

Maurice

「眺めのいい部屋」「ハワーズ・エンド」などで知られるイギリス二十世紀前半に活躍した作家E. M. Forsterの小説である。書かれたのは1913年、「ハワーズ・エンド」が書かれた直後らしいが、題材が題材なだけに、1971年、作者の死後まで発表されなかったらしい。

映画にもなったからご存知の向きも多いと思うが、内容は、二十世紀初頭、イギリスのパブリック・スクールからケンブリッジ大学に進んだモーリスが、同性にしか興味を持つことができない自分の性に目覚め、大学時代の友人クライヴとのプラトニックな関係が破綻した後、クライヴの屋敷の森番アレックと関係を結ぶというものである。

イギリス、性、森番、というと、これはD. H. Lawrenceの「チャタレイ夫人の恋人」のキーワードでもあるが、「チャタレイ夫人」が私家版としてイタリアで発表されたのは1928年、時間の流れとしては「モーリス」の方がかなり先になる。しかしE. M. Forsterは1960年のチャタレイ裁判で証人として登場しているから、身分や性というのは当時の大きなテーマであったことがうかがわれる。

実際今回、ほぼ二十年ぶりに読み返してみて、身分というか社会階層というか、そういったイギリス特有ともいえる題材の扱いが非常に印象的だった。モーリスもクライヴも二十世紀初頭のケンブリッジに在学したということだから、どちらも所謂「いいとこのお坊ちゃん」なのであるが、その「お坊ちゃん」の間でも二人の階層は異なる。亡くなったモーリスの父は証券会社のパートナー、金持ちではあるが、これは働いて得た金で、おそらく十九世紀後半以降に成長した階級である。それに対してクライヴは地方に屋敷を構える、古くからの名士。伝統的に土地の収益だけで暮らしてきた階層であるが、二十世紀に入るとそのような生活形態を維持することは難しかったようで、屋敷はひどく老朽化していることが作品の端々に表れる。さらに付け加えるなら、そういった旧家の経済を立て直す方法はただ一つ、金持ち(おそらく新興成金を意味するのであろうが)のお嫁さんをもらうしかなかったようである。

さてこのクライヴであるが、なるほどモーリスを同性愛に目覚めさせるのは彼なのだが、果して彼自身は同性愛者であったのかどうか、わたしには疑問である。クライヴのとっての同性愛とは、ギリシア古典、プラトンの説く愛であり、モーリスとの交友においても肉体を分かち合うことはしない。そして、ある時期を機に、突然憑き物でも落ちたかのようにモーリスを捨て、自分と同じような社会階層の出身者である女性アンと結婚してしまう。ちなみに、アンとの間もプラトニックであったかというと、そうではなかったようである。しかし、それは熱い感情に基づくというよりは、夫婦の間ではかくあるべきだから、という理由で結ばれた関係のようである。だからわたしは思うのだ、クライヴは本当にモーリスを欲したのではなく、ただプラトンを気取ってみたくてモーリスとの関係を結んだのではないかと。その登場の最初からして、クライヴは非常に頭でっかちである。モーリスはあまり頭の回転がよくない、と何度も本文中に書かれているが、モーリスはそのクライヴの論理に半ば翻弄されながら、心を開いてしまう。しかし、クライヴのような人物は、開かれた心を受け止める術を知らないのである。

クライヴに捨てられたことによって、唯一の理解者を失ったモーリスが辿り着いたのは、森番アレックであった。アレックが一体何者なのか、労働者階級の出身で、いちおう読み書きができ、兄の世話で海外移住が決まっている、という以外には、彼の背景に関しては多くは語られていない。本人はモーリスに誘惑されるまでは「ちゃんとした人間」だったと言っているが、これはモーリスを脅そうとする過程の中で語られる言葉だから、どこまで信用できるものか。にもかかわらず、二人はそれまでの世界を捨てて、共に生きる決意をするのである。身分違いの恋に落ちた運命の恋人たちが辿る道は、時代を越えて共通なのであるが、これはそこに「同性」というオマケが付く。だからこの話は、モーリスとアレックのfairy taleと呼ぶべきなのだろう。